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東京地方裁判所 平成3年(刑わ)842号 判決 1993年2月08日

主文

被告人を禁錮一年六月に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六一年六月九日午前八時二〇分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、東京都港区芝浦《番地略》先道路を田町駅方面から芝浦橋方面に向かい進行中、対向して進行して来る車両を認めて自車を左にカーブさせながら減速するに当たり、ハンドル、ブレーキ等を的確に操作し、進路の安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自車を左にカーブさせる際、ブレーキペダルと間違えてアクセルペダルを踏み込んだ過失により、自車を時速約四〇キロメートルに急加速させて左前方に暴走させ、折から左前方の車道上あるいは歩道上を歩行していた別紙被害者一覧表記載のA(当時四〇歳)ほか一七名に自車をそれぞれ衝突させ、よって、同人らに対し、同表記載のとおり加療約一週間ないし一年一一か月間を要する左坐骨・恥骨骨折等の各傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)《略》

(弁護人の主張に対する判断)

一弁護人は、本件事故の状況は、「車がゼロ発進の直後に突然エンジンが高回転を始めたため、被告人は急いでブレーキを踏んだが高回転は止まず、そのまま進行するので、引き続き数回ブレーキをいわゆるポンピング方式で踏み続けたところ、ブレーキの欠陥のためかブレーキペダルは無抵抗にストンと下まで降り、車は停止しなかった。その間数名の歩行者をハネたが、なおも前方から対向車等の接近を認めたので、これ以上の大惨事を避けるために大きく右に転把し、ブレーキを踏み続けながら、橋の欄干に時速約一五キロで衝突して停止した。」というものであり、本件事故の原因は、車の欠陥による暴走とわずか三度のポンピング方式によるブレーキ施用による蓄積負圧を一挙に喪失するというターボ失陥(車両欠陥)等に基づくものであるから、本件事故は車の欠陥により発生した不可抗力による事故であり、被告人に過失はなく、被告人は無罪である旨主張し、被告人も、当公判廷において、本件訴因で過失とされているブレーキペダルと間違えてアクセルペダルを踏み込んだとの事実を否認すると共に、事故の状況について同趣旨の供述をしているので、この点について判断する。

二本件事故の状況を目撃していた甲及び乙は、当公判廷において、それぞれ概ね次のとおり証言している。

まず、甲は「田町駅の方から歩いて来て百代橋の方へ進もうとした時、橋の方に頭を向けて停止している本件車両を見た。ちょうど運転手が車に乗り込むところだった。その後、エンジンがかかって車が発進した。発進時には特に異常は感じず、車は普通にすっと出たような記憶がある。ところが、横断歩道辺りで急にエンジン音が高くなり、急加速という感じで、車体を右側に傾けて左(百代橋)の方向へかなりのスピードで走って行った。車が歩行者に衝突する場面は見ていない。後から歩いて行った時、車が橋の上で欄干の所にぶつかって止っているのが見えた。」旨述べている。次に、乙は「札の辻方面から歩いて来て横断歩道を渡るため立ち止まった時、横断歩道上を百代橋方面へ向けて徐行のような速度で走行している本件車両を見た。その時は高いエンジン音はしていなかった。ところが、急にアクセルをふかすような高いエンジン音がしたので車を見てみると、車は歩行者と衝突する直前であった。その後、車は歩行者をなぎ倒しながら進んで、橋の欄干がある所にぶつかって止った。」旨述べている。

甲と乙の各証言は、その内容において概ね一致しているばかりか、右両名は本件直後においても同内容の供述をしていて(《証拠略》)供述が一貫しており、しかも右両名とも本件事故前後の状況を車に近い位置から目撃しており、また、被告人及び被害者らと何らの利害関係を有しない中立的立場にあるのであって、いずれもその信用性は極めて高度であると言うべきである。

そうすると、本件事故の状況は、普通の状態で発進し低速で走行していた車が、その後急にエンジン音を高めると共に、左の方ヘスピードを上げて走り出し、歩行者に衝突しながら進んだ末、橋の欄干に衝突して止ったものと認めるのが相当である。

三1  ところで、被告人は事故の状況について、次のとおり供述し、そこには否認、自白との変遷ばかりか、否認の供述の間においても顕著な変遷が見られる。

被告人は、事故当日の①昭和六一年六月九日(<書証番号略>)の取調べにおいて本件過失を否認し、以後②同年七月五日(<書証番号略>)にいったん自白したが、③昭和六二年一〇月二七日(<書証番号略>)に否認に転じ、④昭和六三年九月九日(<書証番号略>)及び⑤平成三年四月九日(<書証番号略>)の取調べにおいても否認を続け、当公判廷においても本件過失の存在を否認している。

そして、捜査段階における否認の供述の内容は、まず車に異常が現れた時期について、被告人は一貫して「エンジンを始動させると同時にアクセルが全開となり、異常な音を出し車が急発進した。」旨述べて、発進当初から車に異常が生じたとし、ブレーキについて、概ね「ブレーキを踏んだところ、ペダルが床に付き、その後強く何回か踏んだにもかかわらず、ペダルは床に付いたままの状態で右足に抵抗感覚が全くなく、最後まで全然効かなかった。」旨述べている。また、発進時におけるギアないしサイドブレーキの状態について、事故直後は「ギアはDに入れていた。」旨述べていたが(<書証番号略>)、その後「ギアはPのままでサイドブレーキも引いたままだったのに急発進した。」旨述べるようになり(<書証番号略>)、さらには「ギアをPからDに入れたかについては記憶がない。」などとも述べるに至っている(<書証番号略>)。

ところが、被告人は当公判廷においては、概ね「ギアがPに入っていることとサイドブレーキを引いてあることを確めてエンジンを掛けた後、ギアをDにし、サイドブレーキをはずして発進した。その後、左にカーブを切るためブレーキから足を離した時、車が後ろから押されているような感じがした。そのまま行ったところ、前から対向車が来たのでブレーキを軽く踏んだが、後ろからぐっと押されていたため、ハンドルを左に切って対向車とすれちがった。すれちがう際、ブレーキを思い切ってぐんと強く踏んだが、エンジンの回転音が早くなってギューンというような音がしており、車は止まり切れなかった。そのまま車は進んで行ったので、何回もぐぐっぐぐっとブレーキを踏んだが、石を踏みつけているような感じで弾力性がないという感じを受けた。結局、ブレーキは利いたと思うが、このままでは止まり切れないと分かり、自爆するつもりでハンドルを右に切り、さらにギアをPに入れたところ、ギギギギーと音がし、入ったと同時に欄干にぶつかった。」旨供述する。

そして、この当公判廷における被告人の供述を主たる根拠にして、被告人、弁護人は被告人車の欠陥を指摘し、被告人の無過失を主張している。

2  しかし、被告人の右の各供述(特に当公判廷における供述)の証明力にはいくつかの問題点がある。

まず、被告人の捜査段階における供述と公判段階における供述との間に重要な点において変遷が生じていることが認められることである。特に被告人は捜査段階で一貫して供述していた事実と明らかに異なることを、公判段階になって初めて供述していることが指摘できる。

すなわち、被告人は、車が異常なエンジン音を出し、急速に進行した時期について、捜査段階では「発進当初から」としていたにもかかわらず、当公判廷において初めて運転の途中からである旨供述しており、ブレーキについても、捜査段階では「ブレーキを踏んだがペダルが床に付いてしまい、以後そのままの状態だったので、ブレーキは全く利かなかった。」旨述べていたのが、公判段階では「ブレーキを軽く踏んだが完全にロックしなかったので、その後何度も踏んでいわゆるポンピングをした。ブレーキは少し利いたと思う。」旨述べるに至っている。

そして、こうした当公判廷における供述が事故後約五年経過した後に突然なされていること自体甚だ不可解であり、その内容がまた、記憶の間違いで説明できる事項とは思われないにもかかわらず、その変遷の理由について合理的な説明はなされていない。なお、注目されることは、捜査段階における供述は、当初から異常発進したとの点につき、目撃者の供述により認定できる前記の事故の状況(前記二)と反し、ブレーキを踏んですぐペダルが底についてしまったとの点につき、後記四1の被告人車のブレーキ装置に異常がなかったとされること(《証拠略》)とは明らかに矛盾していることである。

次に、被告人の供述には、既に述べた事項以外にも、当公判廷で取調べた証拠により認定できる客観的事実に反する部分が多い点も指摘されなければならない。

例えば、「ギアはPのままでサイドブレーキも引いたままで発進した。」との捜査段階における供述(<書証番号略>)は、そもそもギアをPに入れたまま発進することは、動力が車輪に伝わらないため、車の構造上不可能であるばかりでなく、事故後の検査において、発進時及び走行時にサイドブレーキを解除しないで走った痕跡が認められないこと(《証拠略》)と矛盾し、「欄干に衝突する直前にギアをPに入れた。その瞬間ギギギギーと音がした。」旨の当公判廷における供述も、検査の結果、ギアが噛み合おうとして接触する時につくはずの疵は付いていなかったという事実(《証拠略》)に反することなどである。

3 結局、被告人が自己に過失がないとしてする弁解は、それ自体変遷し、相亙に矛盾する内容を含んでいるだけでなく、客観的事実にも反し、いずれも到底信用できないものと言わざるを得ない。

四1  そこで、次に本件事故の原因について検討する。

《証拠略》によれば、以下の事実が認められる(なお、その理由の要旨を必要に応じ括弧内に付記する。)。

①現場に残されたタイヤ痕は、少なくともブレーキによる制動痕ではない(本件車両にはアンチロックシステムが付いていないので、ブレーキがかけられた場合にはタイヤが完全に固定した状態で路上を滑走し、その結果、路面には直線的な痕跡が残されるはずであるところ、本件では右にカーブして走行した痕が残っている。)。

②本件事故当時、本件車両の制動装置やアクセル関係全般に異常はなかった(事故後の検査において、異常と思われる点は見当たらなかった。)。

③車速探知装置(ASCD)が故障し、それによってエンジンの異常回転が生じた事実はなかった(事故後の周波数の違う電波を照射する実験において右装置が誤作動あるいは異常作動したことはなく、また、ASCDが誤作動を起こした場合に通常見られる痕跡を積極的に発見することができなかった。)。

④本件車両の破損状態等からすれば、橋の欄干に衝突した時点における車の速度は、時速約四〇キロメートルであった。

以上の事実は要するに、「事故当時、本件車両は、そのいずれの装置においても特に異常はなかった。それにもかかわらず、車は発進後わずかのうちに時速約四〇キロメートルに達し、最後には欄干に衝突して止まった。その間、路上にブレーキ痕を残すことはなかった。」というものである。

そして、鑑定書によれば、本件車両は停止状態からスロットル全開で二五ないし三〇メートル走行すると車両速度は毎時四〇ないし四五キロメートルとなるところ、《証拠略》によれば、被告人車は低速で走行中急に高速で走行し、三〇メートル前後(スロットル全開で毎時約四〇ないし四五キロメートルに達する距離に近似する距離)走行して橋の欄干に衝突したものであることが認められる。

そうすると、前述した事故の状況を前提にすれば、被告人車両は走行の途中突然スロットル全開で高速走行し、衝突時毎時約四〇ないし四五キロメートルに達して衝突、停止したと認めるのが最も合理的であり、スロットル全開に至る原因としてはアクセルを踏んだことによると認めるのがこれまた最も合理的であるから、結局、本件事故は車は普通に発進したにもかかわらず、その後被告人がブレーキとアクセルを踏み間違えたために、車は急加速し、さらに被告人がブレーキと間違えてアクセルを踏み続けたために、車は歩行者に衝突しながら暴走を続け、最後には欄干にぶつかって止まったものと言うべきである。

2  ここで、被告人の捜査段階での自己の過失を認める旨の供述(<書証番号略>)について検討する。

その内容は、「車に乗り込み、エンジンキーを回しながらアクセルペダルを軽く踏んだ。エンジン始動後、ブレーキペダルに足を移し、ギアをPからDに移してからサイドブレーキをはずし、静かに発進した。横断歩道上付近まで進行したら、歩行者が車道上にあふれて歩いていたため、車道右側を通行しようとしたが、対向車が向かって来ていたので減速して左に寄ろうとした。ところが、アクセルとブレーキを踏み違えてしまったらしく、いきなり加速が始まりエンジン音が異常に高くなった。ハンドルが左に向いていたため、車は歩行者の方へ向かってしまった。私は車を止めようと右足に力を入れたが、なおもエンジン音は高く、加速状態のまま次から次へと歩行者に衝突していった。私はブレーキの故障ではないかと思い、ハンドルを右に切って橋の右側欄干に衝突させ、車を止めた。事故の原因は私の運転操作の誤りで、ブレーキとアクセルの踏み違いである。」というものである。

右供述は、前述した目撃状況や各種の客観的事実とよく整合し、右に検討した事故原因と矛盾するものではない。

3  もっとも、被告人は、そのような供述をした理由について、当公判廷において「入院中、見舞に来てくれた会社の上司である丙から、『欠陥だということを言い張ると、被害者の救済にもひびくし、警察の印象も悪くなる。』と言われたため、仕方がなかった。実況見分の際、上司の丁がずっと付き添っていたが、私が警察官に『アクセルとブレーキを踏み間違えた。』と言うと、丁は私から離れていった。」旨供述している。

しかし、丁は当公判廷において、「現場検証等の際、被告人と同席したことは一度もなく、事実上被告人の様子を見張るなどということもなかった。何度か被告人を病院に見舞にいったことはあるが、事件について圧力をかけるような話をしたことはない。」旨述べており、前述した被告人の各種弁解の信用性の低さをも考慮すると、この点についての被告人の供述も信用することはできない。

結局、被告人の自白内容は十分信用できるものと言うべきである。

五したがって、本件事故は、前述したとおり被告人がブレーキとアクセルを踏み間違えたことにより生じたものであると認めるのが相当である。

よって、弁護人の主張は採用しない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は各被害者ごとにいずれも行為時においては平成三年法律第三一号による改正前の刑法二一一条前段、同改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては右改正後の刑法二一一条前段に該当するが、右は犯罪後の法令により刑の変更があったときにあたるからいずれも同法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、右は一個の行為で一八個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の最も重いAに対する罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を禁錮一年六月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

被告人が起こした本件事故は、ブレーキペダルとアクセルペダルを踏み間違えるという、最も初歩的な過失に基づくものである上、一八名もの多数に上る者に傷害を負わせ、その中には、加療に二年近くを要する傷害を負った者も含まれているのであって、その結果は重大である。しかも被告人は、このような事故を起こしたにもかかわらず、被害者らに対し何ら慰藉の措置を講じていないのであって、その刑事責任は重い。

しかし他方、被告人にはこれまで前科がないことなど被告人にとって有利な情状もあるので、そうした事情を考慮し、主文のとおり量刑した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官北島佐一郎 裁判官牧島聡 裁判官木太伸広)

別紙被害者一覧表<省略>

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